休日は

休日は波動がゆったりとしていいます。
平日は波動が荒い
みんな闘っているのですから

どれだけの人が よろこびのなかで働いているのでしょうか
どれだけの人が 感謝のうちに一日を過ごしているのでしょうか

金持ちが偉い 損をするのが悪 有名になれば善
手段なんてどうでもいいから
結果だけを求めてしまう

休日はいいな
みんな笑顔に戻ります。
そんな毎日にしたいです。

 善念

才能のない僕は 楽な道を選ぶのです

誰かの作ったものにのっかって生きようとすると険しい道がまっています。自分が作った道で生きれば誰も追いかけてくるものはいません。

ただそれだけなんだなあと感じます。

あとは 取り込まれるか・・。 取り込むかによって人生は大きく違ってきます。誰かに取り込まれながら生きるときは厳しいレベルを要求されてしまいます。

物まねという技術はとても難しい道で、その世界で勝ち抜くのは至難の業で、それは、一握りの才能持ち主なのです。僕は楽な世界に生きたい。僕は才能がないから自分の作った世界で、適当に嘘をつくのが精いっぱいです。

それが僕の音楽。

それが僕の死。

神を君は仰ぐのでしょうか。家族を背中に乗せた詩人家の嘘はどこで見抜けるのでしょうか。

呵責に泣いた夕立の悲鳴に、ぼんやりと慈悲の轍を見たのは僕の娘。さあ始まったぞ世の中へつながる孤独の旅路が・・。

 善念

僕の好きな先生

入学した岡山の田舎の中学校は悪い奴ばかり。もうむちゃくちゃ学級崩壊なんて当たり前の時代でした。

そんな中でヤンキーの友達にRCの存在やら、ルーリードやらを教えてもらいました。そのせいで学校でrcがブームになった猫も杓子もそのヤンキーの影響力もありRCを聞いていた田舎の中学にしては不思議な学校でした。

俺はそのころ吉田拓郎さんをテレビで聴いてから「誰だこの人は?」とようやく色んな人に聞いて探し求めCDを手に入れたのですが、ヤンキーの友達に馬鹿にされて恥ずかしい思いをしました。

あいつらから見るとフォークは古臭いと感じたのかな、確かコマーシャルで流れたのは「私は今日まで生きてきました」という曲でした。

また担任の先生も犯罪者顔して切れると何するかわからないような先生だったのですが、その先生がなかなか変わっていて60年代の輸入盤CDを持ってきて教えてくれたり色んなミュージシャンを紹介してくれたり・・。

また毎朝 詩人の岡真史という方の「僕は12歳」という詩集から一遍づつ紹介して解説をしてくれて、今思うとすげえ教育してくれたんだなあと思います。

その詩集のなかで「おっくうな日」という詩があり、その中に風のあたるところでアイスティーなんぞをのんだりしながらという表現があり、その場面がやたら好きで紅茶をやたら飲んでみたりしたなあ、今でも紅茶をのむと岡さんの事を思い出すのです。

その彼は空を飛んでしまいしんでしまったんだ、12歳であれほどの詩が書けるってことは相当感性だったんだろうな・・。12歳という時間は人間の物差しでは短いと判断してしまうかもしれませんが、彼にとっては決して短いわけではなく濃い人生を生き抜いたんだと思います。

その後、私が僧侶になってから 高史明という方の存在を知った作家さんで、色々な人生の遍歴から親鸞聖人へ傾倒されてたくさんの著書を残されているのですがこの方が、私が中学生の時にであった岡さんのお父さんだったのです。

不思議なご縁を感じました。こうして色んな事ってつながるんだなあて感じるあんなヤンキーの学校に入って、あまり好きじゃない日々の中で今の人生の礎となるようなものに出会えたんだなあと思うと感慨深いです。

人生の宝物って、気持ちも重苦しい何もやる気もしないようなそんな人生の泥沼にたくさん落っこちているんですね。

あの先生に会いたいな。今はもう引退しているかなあ・・。まさにRCの曲にある「僕の好きな先生」だなあ。

 善念

恥ずかしいこと

生きるというのは恥ずかしい連続でしかないのかな・・。そこを隠して格好つけるからくるしくなるのかもしれません。

究極は人前でうんこをもらせるかどうかかもしれません。これさえクリアできてしまうと、無敵だったりするかもしれません。

俺は子供のころに何度もうんこをもらしてしまい、恥ずかしい思いをしました。うんこをもらしたままの帰り道に女子二人が私の後ろを歩いていたから、ばれるんじゃないかと何度も振り返ったら、気持ち悪がられ、俺が立ち止まると、向こうも立ち止まりひそひそと不気味な俺を揶揄したが、俺はただうんこが落ちないか心配で仕方なかっただけでした。

お前たちの事がかわいいとか気になってるわけじゃないから、おれを早く通り過ぎろ!!とばかり思いながら、最終的には少しづつおちていくうんこに気付かれてきゃーーって逃げられました。お前らだってうんこするくせに!とおもいながら、人生の陰影なるものを少しづつ感じる帰り道でした。(いつか帰り道のブルースを作ろ)

いろんな場面で恥ずかしい思いは人間するのですが、産まれてきたことがそもそも恥ずかしいことなんで、まあこれは俺の持論ですから、人生留年したからもう一回人間やらされていると思うと お恥ずかしくうまれてきたのです。まあこの手の話はややこしくなるからやめましょう。

しかし この肉体はなかなか意に反することばかりしたがるのです。食べたら、体からは汗や尿やうんちや垢や色んなものが毎日毎日ダラダラと出てくるのですだから、そんなかっこいいわけがありません。
 
めしを食うことだって、冷静に客観視すると何してんだろうて気になることがあります。決して格好つけたからって、もぐもぐ喰ってる自分て本能的行為だからやはり動物みたく見えたりもしますよね。 

だから人間らしく食べるためにマナーとかしてきれいに喰わなきゃならないのかも知れませんが、日頃腹減っていたらそんな余裕なくなってきます。

腹減ってる時の人間の眼差しほど怖いものはありません。真剣そのもの。ラーメン食うときもどんぶりものをかきこんで喰ってるとことかも、なかなか見てられないほどあさましく見えるときがあります。 

俺なんて、そんな姿人に見せたら一気に冷められて終わるだろうな、それでも俺らは、そんな姿を気づかずあるときは隠しながら澄ました顔で生きているのです。

そういえば、仏教でも恥じらいという心は人間である条件の一つとしています。自らを愧じれる心、他に対してはじれる心がないと畜生と同じだと・・。

もう一回自分の行動を見直して生きようとか思うのですが、人間は、追い詰められたとき本質がでるからそこがどうかという事。

まあ俺はだめかもな、死ぬまで恥ずかしいと思いながら息をしていよう。そうだ、息だってだんだん臭くなるから、息するだけでも 恥ずかしい行為をしているのかも知れません。

息臭くてすみません。身体から匂いが出てすいません。うんこ、おしっこばかりしてすいません。どうですかそんなこと考えて人や自分をみてると、100年の恋も冷めますよね。

でもそこがわかったうえでお付き合いすることが大切で盲目にならないコツだと思うのです。しかしそれも含めて、人間て滑稽でかわいらしいなあていうとこを唄いながら味わっています。

立川談志さんが落語は人間の業の肯定だと言われていましたが、高田渡さんとかの唄を聞くとこのみじめな自分が渡さんの唄で居場所を与えられる気持ちになるから、すごい!

だから、うたも人間の業を肯定し許してくれる作用があるんだなあて、まあ当たり前のことをいまさらいってみました。

またね。

 善念

日々の寄る辺

空を見ても、花を見ても、雲の切れ間の月を見ても何かに追われ、日々のストレスの中からは何も感じなくなります。

それがいいのか悪いのかわかりませんが、余裕がないと誰の事も大切にできなくなります。かといって今のやらなければならない人間の最低限の条件はクリアしなければいけない、めしを食うためにはお金をいただかなきゃならない・・、

仕事ができるようになるには最低限勉強して、読み書きや算数くらいはできなきゃならない。でも、ただ最低賃金の仕事で誰でもできるような仕事では飽き足りてしまうのでしょう・・。

もっともっと上を目指すために、みんなもっと勉強しなきゃ、もっと塾行かなきゃ、もっと働かなきゃ、もっといろんなことを考えてお金が稼げるように工夫したり色んな事をしていかなければいけないと 心がどんどん失っていき汚れてしまいます。

これが 俺の糞みたいな毎日の思考と業だ些細なことへの気遣いもできなくなり 目標に向かって余裕もなくひたすら走るのです。理由は 生きていきたいからという究極の生存欲というまやかしの煩悩に騙されてしまっているからなんだと、かといって極端に生きなきゃいいんだという安直な発想はいらないのです。

もっと楽に生きていきたいのです。もっとシンプルに、もっと慈悲深く、日々の寄る辺をもとめて、僕はへたくそなギターを爪弾くのです。そしてへたくそな歌を歌うのです。

おばあちゃん、おばあちゃんと袖をひっぱて頼りなく歩いてるおれのように、たよりないさみしい俺が 頼る唯一の場所をつまびくのです。

善念