聖なる夜は静かでした。流石にお客さんもすくなく常連さんにいただいたケーキを食べた。冷たい雨が降ってきて、クリスマスを祝うような景色ではなかった。
随分前にある牧師が僕に教えてくれた、イエスは馬小屋で生まれたんだ、見捨てられたような馬小屋でそれを祝福したのは、身近な人でもなく、異教徒達や全く関係のないような人達だったと、この話しがわたしは大好きだ。
私のように家族に見放されて疎まれて、生きて来た人間にとっての救いになるそしてこの異教徒のエピソードがまた自分自身に重なる。
私も子供の時から今まで、私を救ってくれた人や見放さなく助けてくれるような人はいつも異教徒であり、全く関係の無いような人が憐れんで寄り添ってくれてきた。
だから私の宗派とか宗教のジャンルによっての垣根はどんどんなくなってきた。最後は裸の人間と人間の関係でしかない気がしている、背景にある余計なものばかりにこだわると、本質を知らぬまま虚しく死んでいくのだ。
イエスをいち人間イエスとして
イエスをいち人間イエスとして見た時どれほど悲しい存在だったのだろうかと思ってしまう。
うまれから死の姿まで、一切平穏な幸せには恵まれず、そして最後に『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と嘆いた人間イエスの姿にこそ、わたしは偉大なる尊さをかんじずにはいられないのだ。
わたしは一応坊主の端くれではあるが、そんな事は関係なくこんなわたしでもイエスキリストはいつもそばにいて、死の淵悲しみの淵を共に歩んでくださり、決して見捨てないでいてくださるのだと思っている。
だからこそイエスキリストを愛して止まないわたしがいるのだ。人生は苦、くるしみます、かなしみます。でもそこには常にイエスがいらっしゃる!
メリーくるしみます。ハレルヤ!!
善念 – Zennen