この世の因果の道理を見つめていると
自分の過去の報いに今もこれからも
苦しまねばならないのだと感得してしまう
自分は知らず知らずに罪をつくっていることに
きずくと
今からその報いを受けるための人生かと
思うと
もう未来になんの希望もなくなってしまう。
もし今がたまたま幸せな状況にいたとしても
そして自分だけならまだしも
親の因果が子に報うのかと考えると
自分が通ってきた人生を
子供に背負わせてしまうのなら
もう子育てに夢も希望も全くなくなる
普通に考えると真っ暗闇の人生だ
わたしの歩いた道なぞは
絶対に歩ませたくない。
もし歩かねばならないのなら、
わたしの存在を恨み、親まで恨みたくなる
普通の人ならそこまで
悲観的な見方をしないでしょう
しかし もう少しこの世の原理原則を追求して観察すると
業の世界の呪縛にがんじがらめで
人は知らず知らず苦しみの道を
歩かされていることにきずく
たとえいくら親を恨んでも、
親と同じような癖や親と同じような、
失敗や過ちを犯しかねない。
こう思うと、
この負の鎖を必死で噛みちぎらねばならない。
そうしないと
生きるということはあまりにも
絶望のなにものでもない
普通に歩んでしまうと
死んでしいたいとおもう
何故なら何一つ希望なんてなくみえるのだ
しかし世の中にはこの絶望に蓋をして
沢山の誤魔化すものがある
酒も、色も、物欲も、旅行や遊びも
それはわたしも決して否定できない、
しかしどんなに、ごまかして、ひと時の楽しさや
幸福感で、人生は最高だと、無理に計らっても
忍びよる、闇はヒタヒタと
僕の後を追っかけてくるのだ、
何を成しても、どこに行っても業の報いに
さらわれて罪業と苦のループにはめ込まれてしまう。
この絶望に満ちたわたしを
憐憫に思って、
救いの手を差し伸べて
くださっている方がいるなら
素直にお任せするしか方法がない。
合言葉は
「ごめんなさい」
「助けてください」
「ありがとうございます」
この宇宙に救いという親心が存在するなら
どんなに罪深い子供でも
その子が懺悔して
素直にあやまるなら
どうにかしてやろうというのが
親心なのではないだろうか
この宇宙の働きには
こうした親心が働いている
それを
大慈悲心という。
この慈悲はとてつもなく、
深く広い
何故なら一人も漏らさず救おうとする働きである
どうすればこの慈悲を知ることができるのか
それはまず私たちが
絶望を歩いていることに
きずくことであり、
自分の力では
どうすることもできない事があるという事を
知ることである
そこに至ると
この暗闇に火が灯り
光が差してくる
ちなみに仏教ではこの灯を智慧の光という
物事の本質を見極めると灯される光である
お釈迦様はこの灯火を持ちなさいと
遺言された。
どうか 皆さまが正しく幸せでありますように
この灯火に出会えますように
合掌
善念