闇と光

自分から手が離れていったことも

自分の業として引き受けなければならない

こんな厳しい業という仕組み

業とは法律とは違って目に見えにくい働きだから
どの行為の結果が今に至ってるのかは、はっきりとわからないから無視をしてしまい、関係ないと思いたくなりますが、
しかしいくら目を塞いでも、逃げても
どこまでもついてくるものが、業の報い

どれだけ慎重に生きていても何かのきっかけで
間接的にでも人を傷つけたり、世の中にたいして
罪をつくってしまうこともある

親鸞という方は
ご自身の事を罪業深重の凡夫と言われた
あれほど修業もされ慎んだ生活を
された方でも

この身の
罪業性の暗さを嘆かれた
しかしその暗さが実は救いの中におさめられていく縁となるのだと説かれた

智慧昏き人間であればあるほど
仏が救わずにおれないと光を強めるのだから
わたしの暗さはいっそうくっきりとみえてくる

余す事なく この働きにお任せするしか
わたしにとってはないのかもしれない。

昏きながら おさめ取られた 光の中を
歩いて行こう。

合掌

 善念

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