11月の法話「信じるな。期待するな」

コロナもようやく落ち着き、少し安心している今日この頃ですが急に忙しさが増してきているようなきがします。

今までゆったりとしていたのだから仕方はないのですが、心情としては徐々にエンジンをかけたかったのですが、一気にかけなければならなくなってしまいました。

お店の方も営業時間を少し短縮したいと思っていたのだが案の定、守られるわけもなく、初日から夜中まで働くことになってしまいました。

物事は思うようには運ばないのが道理であります、それはこちらがどんなに強い意志をもっていても打ち破られるときは簡単に打ち破られるのです。そのことをどう受け止めていくのかが大切な事かもしれません。

仏教では分別する心を捨てろといわれます、簡単にいうなれば目の前に起こった現象に良いとか悪いとかの判断をすぐに下すなといわれているのだと思います。

なぜなら私たちは悟っていない以上自我の心でもって都合のいいものを良しとしたり都合の悪いものをダメなものだとしてしまう心があるから、物事の本質が見えないのであります。

仏教の基本的な教えの中に八つの正しい道というものがあります。その中で「正見」といって正しいものの見方をとても重要にかんがえます。しかしこれがなかなかできないものかもしれません。

だから私は嫌な事や思ってもみないアクシデントが起きると、感情的になるのですが、すぐに切り替え一旦良し悪しをつける感情は横に置くということを訓練しています、そうすると今までとは違うものの見方や違う世界が広がってくるのです。

結局は死というものの前には人は無力なものであり三途の川の前で脱衣婆にすべてはぎとられる

しかしどこまでも煩悩がある凡夫である以上は整理できない感情というものもあるのは事実でありますが、その部分が自分を奮い立たす原動力になるときもあります。

ここ最近では、人生で嫌なことがあったことが原因で身勝手な無差別殺人に発展していくという事件が増えてきているように感じます。

思うようにならない人生であるがゆえに失敗したり、うまくいかなかったり傷ついたりすることは日常的に普通に起こるのですが、このような事件にまで発展させてしまった背景には何があるのだろうかと考えさせられる。

一つはこの世になにがしかの期待しているものがあるから、また自分自身というもを信じすぎているということがその原因の一つであるのかもしれない仏教を学んでいくと期待していたりしがみついていたものが全部はぎとらされていく、そして最後までしがみついた自分までも全部はがされていくそして全部何もなくなったときに確かなものがわかり、はじめて生かされていることに感謝できる自分に巡り合えるのです。

人生は早いうちに期待を捨てるようなものに巡り合えた方が楽だと思うそのことにきずかずに何かに日々しがみついて生きていけたとしても
結局は死というものの前には人は無力なものであり三途の川の前で脱衣婆にすべてはぎとられるのである。

どうか少しでも多くの方がこの世の道理に目覚め、凄惨な事件が少なくなってほしと願うばかりであります。

合掌

善念 – Zennen

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