恥ずかしいこと

生きるというのは恥ずかしい連続でしかないのかな・・。そこを隠して格好つけるからくるしくなるのかもしれません。

究極は人前でうんこをもらせるかどうかかもしれません。これさえクリアできてしまうと、無敵だったりするかもしれません。

俺は子供のころに何度もうんこをもらしてしまい、恥ずかしい思いをしました。うんこをもらしたままの帰り道に女子二人が私の後ろを歩いていたから、ばれるんじゃないかと何度も振り返ったら、気持ち悪がられ、俺が立ち止まると、向こうも立ち止まりひそひそと不気味な俺を揶揄したが、俺はただうんこが落ちないか心配で仕方なかっただけでした。

お前たちの事がかわいいとか気になってるわけじゃないから、おれを早く通り過ぎろ!!とばかり思いながら、最終的には少しづつおちていくうんこに気付かれてきゃーーって逃げられました。お前らだってうんこするくせに!とおもいながら、人生の陰影なるものを少しづつ感じる帰り道でした。(いつか帰り道のブルースを作ろ)

いろんな場面で恥ずかしい思いは人間するのですが、産まれてきたことがそもそも恥ずかしいことなんで、まあこれは俺の持論ですから、人生留年したからもう一回人間やらされていると思うと お恥ずかしくうまれてきたのです。まあこの手の話はややこしくなるからやめましょう。

しかし この肉体はなかなか意に反することばかりしたがるのです。食べたら、体からは汗や尿やうんちや垢や色んなものが毎日毎日ダラダラと出てくるのですだから、そんなかっこいいわけがありません。
 
めしを食うことだって、冷静に客観視すると何してんだろうて気になることがあります。決して格好つけたからって、もぐもぐ喰ってる自分て本能的行為だからやはり動物みたく見えたりもしますよね。 

だから人間らしく食べるためにマナーとかしてきれいに喰わなきゃならないのかも知れませんが、日頃腹減っていたらそんな余裕なくなってきます。

腹減ってる時の人間の眼差しほど怖いものはありません。真剣そのもの。ラーメン食うときもどんぶりものをかきこんで喰ってるとことかも、なかなか見てられないほどあさましく見えるときがあります。 

俺なんて、そんな姿人に見せたら一気に冷められて終わるだろうな、それでも俺らは、そんな姿を気づかずあるときは隠しながら澄ました顔で生きているのです。

そういえば、仏教でも恥じらいという心は人間である条件の一つとしています。自らを愧じれる心、他に対してはじれる心がないと畜生と同じだと・・。

もう一回自分の行動を見直して生きようとか思うのですが、人間は、追い詰められたとき本質がでるからそこがどうかという事。

まあ俺はだめかもな、死ぬまで恥ずかしいと思いながら息をしていよう。そうだ、息だってだんだん臭くなるから、息するだけでも 恥ずかしい行為をしているのかも知れません。

息臭くてすみません。身体から匂いが出てすいません。うんこ、おしっこばかりしてすいません。どうですかそんなこと考えて人や自分をみてると、100年の恋も冷めますよね。

でもそこがわかったうえでお付き合いすることが大切で盲目にならないコツだと思うのです。しかしそれも含めて、人間て滑稽でかわいらしいなあていうとこを唄いながら味わっています。

立川談志さんが落語は人間の業の肯定だと言われていましたが、高田渡さんとかの唄を聞くとこのみじめな自分が渡さんの唄で居場所を与えられる気持ちになるから、すごい!

だから、うたも人間の業を肯定し許してくれる作用があるんだなあて、まあ当たり前のことをいまさらいってみました。

またね。

 善念

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